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お年玉の思い出

先にお伝えしておきます。
あまり役立たないお年玉のお話です。
「そんなお年玉のやり取りもあるんだ・・・」
というご参考になれば幸いです。

 

私(住山)の子どもの頃のお年玉のイメージは「循環」です。
いちおう自分に・・・と受け取るけれど、
それは決して自分のお金ではない、というイメージでした。

 

お年玉は自分が受け取り、
自宅に帰ったらすぐに母に預け、
母は誰からいくらもらったかを毎年きちんと記録していました。
それは全額学費に充てられることも決まっていました。
いわば「将来必要なお金」の貯蓄の変化球というイメージです。

 

加えてお正月前には
「小学生はいくら、中学生はいくら、高校生はいくら」
と、親戚間で不公平が出ないよう、
電話で金額の取り決めがなされている様子を
いつも聞いていました。

 

結婚式やお葬式などがあった場合も同様です。
すべて取り決めがなされている中で
ただ、形式的にお金が循環している様子を眺める。
それが私にとってのお年玉です。
そのため、特別な感情は一切ありません。

 

そんな私ですから、
自分の知っている循環には入っていない想定外のお年玉は
本当に驚くべきものであり
「渡す人は損しかしないのに、何でお金をもらえるのか?」
と、怖い存在でもありました。

 

そんな私にとって、その循環の中に入っていない
最も思い出深いお年玉があります。
私が27歳の時のお正月に、祖母からもらったお年玉です。

 

「いいよ、もう働いているんだし」
と言ったのですが、
「気持ちだから受け取って」
と祖母に言われました。

 

戸惑う私に誰かが
「ばあさんは喜んでほしいだけなんや、受け取っとき」
と言われ、素直にありがたくいただきました。

 

袋の中には3千円入っていました。
その3千円は、私にとって金額以上に大きくやさしいものでした。

 

とても大切なお金だから、とても気持ちのこもったお金だから
自分も、祖母も喜ぶような使い方をしなければならない。
そう思うと、なかなか使えませんでした。
使い道を考えに考え抜いて、夏になり、
ようやくそのお金でスカートを1枚だけ買いました。
そのスカートは、とてもとてもに大切に使いました。

 

有意義に使えたかどうかは、いまだにわかりません。
今はもう、そのスカートもお金も手元にありません。

 

しかし、とても心のこもったお年玉をいただいたことで
これ以上無いぐらいの豊かさをもらいました。
使い道に悩む時間も、形がスカートに変わったあとも、
そしてモノが手元からなくなってしまっても
いつもいつも、祖母に見守られているような感じがしています。

 

祖母のあたたかさ、やさしさは、私の中でいつも健在です。
お正月が近づき、お年玉の話が出るたびに思い出す出来事です。

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